大藤小太郎の足跡をたどる (2)

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大藤小太郎、加勢として梁川城に派遣される

 慶長5(1600)年、何月かは不明ですが、直江兼続のもとにあった関東牢人のうち大藤小太郎ら重立った者8名は上杉景勝より近侍を命じられ、米沢から会津に移りました。徳川家康との関係が悪化し、いわゆる「会津征伐」が間近に迫っていたころです。

 上杉方は、家康に与した伊達・最上などの周辺大名や関東から襲来するであろう家康率いる本隊への備えとして、支城や防塁の整備、兵力の増強を急ぎました。そのうち、伊達政宗への備えとしたのが、白石城・福島城・梁川城です。会津で上杉景勝に近侍した小太郎はさらに梁川城へ加勢として派遣されます。梁川城は伊達氏発祥の地陸奥国伊達郡にあり、須田大炊(おおい)長義を城代として守りを固めていました。梁川町史編纂室蔵の一紙文書には、会津からの加勢として、築地修理、角屋太郎左衛門、先方衆として、「千石 車丹波」「同 大藤小太郎」らの名があります。

 余談ですが、 ここに小太郎と同列で名前がみえる車丹波守はかつて常陸の佐竹義重の側近でした。上杉への助力のため送り込まれたとも言われています。 関ヶ原戦後には常陸に戻っていたようです。常陸の佐竹氏は、上杉に通じ関ヶ原に参戦しなかったということで、慶長7(1602)年、常陸54万石から出羽秋田18万石への減石移封になりました。車丹波はこれに反発して一揆を企てたため、水戸で磔刑に処せられたとも、斬首されたともいわれています。

 話を戻します。慶長5年7月21日、徳川家康は会津に向けて江戸城を発しました。同月24日、下野国小山に到着したところで、石田三成らが挙兵したとの一報が届きます。通説では、ここで諸将を集めての「小山評定」が行われたとされています。評定の結果、26日以降、諸大名はUターンして次々と西上していきました。家康は、上杉へのおさえとして次男の結城秀康を宇都宮に残します。合戦終結後、大藤小太郎はこの結城秀康に仕えることになります。

 このころ、伊達政宗は家康の命を待つことなく、刈田郡白石城を攻めてこれを落としています。7月25日のことです。白石城将甘粕景継の白河口(会津若松とも)出張中の隙をついての攻撃でした。

 政宗が次に狙うのは福島城、梁川城です。8月に入り、梁川城を守る将士から直江兼続のもとに、政宗来攻の風聞ありとの報告がなされました。同月13日付けで、兼続がこれに、「もしそのようなことがあれば自ら後詰めを仕りこれを討ち果たすべし」と返書しています。宛名に記された7名は、順に、横田大学・車丹波守・金子美濃守・築地修理亮・角屋太郎左衛門・大藤小太郎・須田大炊介でした。 (木村徳衛『直江兼続伝』 )

 このあと、9月3日付け兼続から福島城代本庄繁長宛の書簡には、政宗から「降伏」の文書を受け取ったことを示す一文があります( 『梁川町史6』 ) 。政宗の「降伏」はにわかには信用できませんが、 あるいは上方の動向を確かめてから次の行動に出ようとする思惑があったのかもしれません。家康が必ず勝利するとの確証はなかったはずですから、この怪しい「降伏」は東軍が敗北したときに備えた一種の保険だったともみられます。

     古文書講座講師 矢内昭夫

福島・梁川付近地図

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