越前での大藤小太郎
大藤小太郎宛の慶長8(1603)年正月9日付け知行宛行状に千石の内訳が記されています。842石1斗3升が志比(しひ)領今泉村において、157石8斗7升が 開發(かいほつ)村においてとあります。志比領はかつて志比荘と呼ばれていました。現在の永平寺のあるあたりです。
鎌倉時代の承久の乱後、志比荘を所領としたのが秦野にゆかりの波多野義重でした。義重は曹洞宗を開いた道元禅師をこの地に招き、永平寺の創建に貢献しています。なにやら不思議な縁を感じさせます。今泉村・開発村は現在の福井市北今泉町・東今泉町付近にあたります。北庄城からは東へ約3キロほどのところです
屋敷地は北庄城(のち福井城)鳩の御門内に与えられました(大藤系図) 。鳩の御門は漆御門とも呼ばれ、現在の北庄城址・柴田公園付近(福井市中央一丁目)にありました。百間堀南端の土橋を渡った門内には秀康の養父結城晴朝の屋敷もありました。
次に、越前において小太郎が与えられた役目についてみてみましょう。秀康時代の家臣団を列挙した「中納言秀康卿分限帳之写」をみると、「母衣使番」の筆頭に大藤小太郎の名があります。母衣(ほろ)というのは本来、武者が背中につける大きな布のことで、走るときに風でふくらみ、矢が当たらないようにする効果があるそうです。母衣は敵味方からも識別しやすいので大名家でも特に武勇の誉れある武士、あるいは本陣と前線の間を行き来する使番に着用が許されたものです。そういう母衣を着用したエリート集団を「母衣衆」と言いました。例えば、織田家では、馬廻から選抜された信長直属の使番である「黒母衣衆」と「赤母衣衆」があり、前田利家は「赤母衣」のひとりであったといわれています。 「母衣使番」は経歴からみて大藤小太郎に最もふさわしい役目だったと思われます。
金三郎についての藩の記録をみると、「中納言秀康卿分限帳之写」に、「三百石 大藤金三郎」とあり、「黄門様(秀康)御代御給帳」には「相州 大藤金三郎 御小姓頭」となっています。相模国の出身で御小姓頭を努めているということです。また後に編纂された「越藩諸士元祖由緒書」には、改名後の名前で「大藤金左衛門信清 生国不知 元和元年家督」とあります。
慶長12(1607)年閏4月、結城秀康が病死しました。享年34。67万石の跡を継いだのが嫡男の松平忠直です。このときまだ13歳でした。
忠直の相続から7年後の慶長19(1614)年に、大坂冬の陣がありました。このときの越前勢の陣立てをみると、総勢1万5千が11の備えに編成されています。このうち多賀谷左近率いる六番手の目付を命じられたのが大藤小太郎です(『国事叢記』)。この冬の陣で、越前勢は軍令を待たずして、前田利常・井伊直孝・藤堂高虎らと真田丸を攻め、思わぬ大敗を喫しています。越前勢の討死に480とする記録もあります。このときの小太郎の働きを伝える史料は見あたりません。
古文書講座講師 矢内昭夫
