市民の窓– category –
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市民の窓
大藤小太郎の足跡をたどる (8)
西田原香雲寺に建てられた大藤小太郎の供養墓 大坂夏の陣で大藤小太郎は討ち死にしました。かえりみれば、天正18(1590)年、北条氏のもとで秀吉の大軍を相手に籠城戦を戦い抜き、さらに天下分け目の慶長5(1600)年には、上杉景勝・直江兼続麾下で伊達政宗... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (7)
大藤小太郎、大坂夏の陣で討死す 慶長20(1615)年、大坂夏の陣における越前松平家の備えをみると、大藤小太郎の名は母衣八名の中にみえ、 「右八騎物見跡先を下知す」と説明があります。息子の金三郎は「大小姓組一番」というグループに属していました。... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (6)
越前での大藤小太郎 大藤小太郎宛の慶長8(1603)年正月9日付け知行宛行状に千石の内訳が記されています。842石1斗3升が志比(しひ)領今泉村において、157石8斗7升が 開發(かいほつ)村においてとあります。志比領はかつて志比荘と呼ばれていました。現在の... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (5)
大藤小太郎、上杉家を離れ、結城秀康に召し抱えられる 慶長6(1601)年8月16日、上杉景勝は直江兼続を伴って大坂城に赴き、豊臣秀頼に挨拶を済ませたのち、徳川家康と会見しました。そこで申し渡されたのは会津120万石から米沢30万石への減石転封です。改... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (4)
上杉景勝から梁川城の大藤小太郎らに慰労の酒肴が届く 10月16日付け直江兼続から梁川城の諸士に宛てられた書状には、伊達方への内応が発覚した横田大学を会津若松へ送ること、町人・百姓でも不審なものは若松へおくるべきこと、梁川城代の須田長義家中か... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (3)
伊達政宗と戦った大藤小太郎 直江兼続は、家康との直接対決が回避されたことと前述した伊達政宗の怪しげな「降伏」申し出もあり、最上領への侵攻を開始します。上杉勢は、9月12日から17日にかけての激戦で、最上方の多くの出城を陥落させ、最上義光(よ... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (2)
大藤小太郎、加勢として梁川城に派遣される 慶長5(1600)年、何月かは不明ですが、直江兼続のもとにあった関東牢人のうち大藤小太郎ら重立った者8名は上杉景勝より近侍を命じられ、米沢から会津に移りました。徳川家康との関係が悪化し、いわゆる「会津... -
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大藤小太郎の足跡をたどる (1)
大藤小太郎、会津の上杉家に仕官する 天正18(1590)年7月、若き大藤氏の当主与七は、北条氏直からの朱印状を手にします。豊臣秀吉によって仕掛けられた小田原城攻囲戦が北条氏の降伏で終結した直後のことです。そこに書かれていたのは、この度の伊豆韮山... -
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大藤小太郎の足跡をたどる はじめに
香雲寺と大藤氏について 令和7年11月、秦野歴史おこしの会主催の市内地区研修会に参加し、西田原の曹洞宗大珠山香雲寺を見学させていただく機会を得ました。香雲寺は南足柄市にある大雄山最乗寺と関わりの深い寺院です。最乗寺は全国に4000余りの門流を... -
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幻のお札 堀村北の堂地蔵尊
2016年1月、平塚市博物館で特別展「千枚のお札」が開催されました。これは、秦野市堀山下の旧家に保存されていた大量のお札が寄贈されたことを受けて開かれた展覧会です。 寄贈者のO氏から「展示の中に、あなたが調べている秦野二十四所地蔵尊(註1)...