大藤小太郎、大坂夏の陣で討死す
慶長20(1615)年、大坂夏の陣における越前松平家の備えをみると、大藤小太郎の名は母衣八名の中にみえ、 「右八騎物見跡先を下知す」と説明があります。息子の金三郎は「大小姓組一番」というグループに属していました。大小姓として主君松平忠直の近くにあって戦いに臨んだものとみられます。
大坂冬の陣の戦闘が1カ月半に及んだのに対し、夏の陣は、家康・秀忠父子が着陣した5月5日から大坂城が落城した7日までの3日間で決着がついています。6日の八尾・若江の戦いでは先鋒の藤堂高虎、井伊直孝の両隊が苦戦を強いられ大きな損害を蒙りました。このとき、松平忠直は戦列に加わらず傍観していたということで家康の不興をかっています。
翌7日、汚名挽回をはかる忠直は、夜明け前から軍を進め、茶臼山に陣取る真田信繁(幸村)の赤備えに対峙します。前年の真田丸の戦いでは煮え湯を飲まされた相手です。この日の真田勢の攻撃はすさまじく、一時は家康の本陣も蹂躙され、旗本は逃げまどいあわやと思わせる瞬間さえあったと伝えられます。
松平忠直の越前勢はといえば、前日のこともあり、命を惜しまず将士共に戦場に屍をさらすべしと遮二無二進撃し、大坂城一番乗りを果たします。討ち取った首級の数は三千七百余り。このなかには疲労困憊の状態で討たれたという真田信繁の首級もありました。
この攻城戦の最中に、大藤小太郎は討ち死にを遂げます。そのときの状況を記した文書が残されています。 「大藤小太郎打死場之事」 (大藤文書)です。日付は10月9日、宛名は4名で、美濃殿、主馬殿、五郎左衛門殿、四人目は敬称の「殿」はつけず休也とだけ書かれています。日付の下にあるべき筆記者の名前はありません。本文の内容は、討ち死にのとき小太郎の近くにいた2名の別当(馬丁・口取り)が語ったことをもとにしたものです。少々読みにくいところがありますが、次の通りです。
「惣堀から四五十間程手前に乗り付けたところで、左の腿に矢をうけ傷を負いました。それでも一人を斬り伏せその頸を取ったところへ新に敵六・七人が現れ、小太郎は右のまなこ(眼)を鑓でつかれました。 さきに小太郎が討ち取った首級は、 深澤長右衛門をもって御前の首実検に供しました。倒した相手は銀の具足を着用しておりました。この具足につきましても深澤長右衛門にお見せしました。そのとき、小太郎に付き従っていたのは、半右衛門と二郎兵衛と申す者です。この外に、ちょうど引き退こうとしていたとき、味方二・三人が乗り付けて参りました。なお、多賀谷左近配下の鉄砲大将杉山右衛門佐も小太郎討ち死にの現場を目撃しております。小太郎の親類というものは拙者以外にはおりません。右に記した小太郎討ち死にの状況は二人の別当の証言によるものです。」
大坂城惣堀(総構)まであと四・五十間というところで左腿に矢をうけ、それでも敵と渡り合い一人は倒しますが、新手の敵に囲まれ右目を鑓でつかれ致命傷を負ったということのようです。この文書を書いたのは、 「小太郎には自分以外に親類はいない」と言っていることから、息子の金三郎かもしれません。
古文書講座講師 矢内昭夫
