大藤小太郎、会津の上杉家に仕官する
天正18(1590)年7月、若き大藤氏の当主与七は、北条氏直からの朱印状を手にします。豊臣秀吉によって仕掛けられた小田原城攻囲戦が北条氏の降伏で終結した直後のことです。そこに書かれていたのは、この度の伊豆韮山における籠城戦での与七の働きを讃え慰労することばでした。それに続けて、「今より以後、何方になりともこれ有るべき儀、相違あるべからざるものなり。」とありました。これからは、北条氏を離れ、どこで暮らしても、誰に仕えても良いということです。この朱印状は、徳川家康の次男結城秀康を藩祖とする越前藩に仕えた大藤家に伝えらたものです。与七のその後の消息はわかりません。
大藤文書には北条氏時代のものがかなり含まれていて、『戦国遺文 後北条氏編』にも収録されています。同家文書で与七の次に名前が確認できるのは大藤小太郎です。関ヶ原合戦の3年後、慶長8(1603)年の日付で、結城秀康が小太郎に知行千石を宛(あて)がうというものです(「結城秀康知行宛行状」)。文言に「約束のごとく」とありますので、これ以前に秀康と小太郎の間になんらかの契約があったようです。『福井藩史話』には「結城において秀康公へ召抱へられ、越前において千石頂戴す。」とあります。これが正しいとすれば、秀康がまだ結城にあった慶長6(1601)年に、仕官の約束が交わされたことになります。さきにみた与七と小太郎の関係はわかりませんが、世代的にみて同一人物の可能性も考えられます。包囲戦の末に小田原城が開城してから慶長6年まで11年の歳月が流れています。この間、小太郎はどこでどのように過ごしていたのでしょうか。
それを知る手掛かりは山形県の米沢図書館にありました。米沢は上杉氏の城下町です。同館所有の『會津御在城分限帳』に「千石 大藤小太郎」と書かれています。こちらも千石です。最初は、同名異人の可能性も疑いましたが、別の資料で、「唯今越前に居り候大藤小太郎」が一時期、上杉家中にあって合戦に参加していたことが語られています。(『金沢古蹟志』巻12「青木頼母伝話」)。この話に間違いがなければ、上杉家中の小太郎と越前の小太郎は同一人物とみて良いと思います。
慶長3(1598)年、上杉景勝は豊臣秀吉の命により、120万石に加増され、越後から会津に転封になりました。関ヶ原合戦の2年前です。移封後、執政直江兼続は会津を中心に領国の防衛強化をはかり、多くの牢人衆を集めています。大藤小太郎もそのうちのひとりだったようです。『分限帳』には、与板衆とあり、兼続直属であったことがわかります。それにしても千石は破格です。実戦経験を評価されてのことでしょうか。「若輩」(天正17年12月北条家朱印状)と言われながらも、北条氏規の副将として韮山で籠城戦を戦い抜いた与七と小太郎が重なって見えます。
古文書講座講師 矢内昭夫

