大藤小太郎の足跡をたどる (8)

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西田原香雲寺に建てられた大藤小太郎の供養墓

 大坂夏の陣で大藤小太郎は討ち死にしました。かえりみれば、天正18(1590)年、北条氏のもとで秀吉の大軍を相手に籠城戦を戦い抜き、さらに天下分け目の慶長5(1600)年には、上杉景勝・直江兼続麾下で伊達政宗とも戦いました。そしてまた、慶長20(1615)年、豊臣秀頼が籠もる大坂城を攻め、先陣きって奮戦した末の討ち死にです。戦国の終焉を象徴するすべての局面に関わっています。劇的で波瀾に富んだ生涯でした。

 大藤系図によれば、小太郎は福井の曹洞宗孝顕寺に葬られたということです。孝顕寺は結城秀康の菩提寺として知られています。戒名は、「活巌長快居士」です。

 小太郎のこの戒名は、秦野市西田原香雲寺の「大藤氏の墓」と呼ばれている墓石にも刻まれています。二基ある墓石のうち右側です。今ではだいぶ風化が進んで文字も消えかけていますが、かろうじて読める部分もあります。 大原信男氏のレポートによれば、 中央に 「現成院殿活岩長快大居士」とあり、その左右に分けて刻まれた命日は慶長二十年五月六日と報告されていますが(「戸川の領主と現成院殿活眼長快大居士墓」秦野市史研究一九) 、六日は読み間違いで、七日であることはいまでも目視で確認できます。これは小太郎討ち死にの日付と一致します。

 大藤系図と墓石の文字の異同についてですが、道号の「活巌」「活岩」は同音異字で、人名などでもよくみられることです。法名の「長快」は両方とも同じです。香雲寺では院殿号と大居士がつけられました。従来、この墓石は「大藤政信の墓」とされてきましたが、大藤小太郎の供養墓とみて間違いないと思います。

 香雲寺には、元禄ごろに十六世住職日宣隆曻によって作られた開基位牌も祀られています。表面には「當山開基」と中央上部にあり、右に「現成院殿活眼長快大居士」 、左に「峯珠院殿傑叟林英大居士」 、裏面には3行で、「天正十四乙酉歳五月廿三日源朝臣大藤式部少輔政信」「香雲寺開基 隆昇代造」「大藤小太郎照盛」と書かれています(「香雲寺天保六年寺院取調書上帳」『秦野市史』 第1巻所収) 。

 大原氏によれば、 秦野市内には、 横野と戸川にも同様の戒名を刻んだ供養墓が現存するそうです。道号は位牌と同じ「活眼」となっていますので、香雲寺の位牌を元につくられたとみられます。

 そして、「大藤小太郎の墓」はなんと八王子にもありました。 『新編武蔵国風土記稿 巻九七』多摩郡下柚木村の説明に次のようにあります。

大藤小太郎墓 馬場の内百姓藤兵衛がかまへの内にあり。小太郎は何人なりや詳ならず。小田原北條氏の家人に、大藤式部・同新(兵)衛など云人あれば、それらの一族なるにや。村民市左衛門等は、小太郎が子孫なりと云う。されど今は氏も大室と改む。

 下柚木村では、大藤小太郎がどういう人物で、なぜここに墓があるのかはわからなくなっていたようです。近くには、滝山城主大石定久を開基とする曹洞宗永林寺(はじめは永麟寺)があります。定久は北条氏照を養子に迎え家督を譲っています。

 「大藤小太郎の足跡をたどる」はひとまず、ここでペンを置きます。
お読みいただき、ありがとうございました。

     古文書講座講師 矢内昭夫

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