大藤小太郎、上杉家を離れ、結城秀康に召し抱えられる
慶長6(1601)年8月16日、上杉景勝は直江兼続を伴って大坂城に赴き、豊臣秀頼に挨拶を済ませたのち、徳川家康と会見しました。そこで申し渡されたのは会津120万石から米沢30万石への減石転封です。改易を免れ、ともかくも家名の存続は許されました。これは、家康の知恵袋といわれた本多正信と家康・秀忠も一目置いたとされる結城秀康の斡旋によるものといわれています。
上杉家の石高は四分の一に減らされましたが家臣団は一様に三分の一の減石に留められています。そのかわり、会津入封当時に、新規に召し抱えられた将士のほとんどは召し放ちです。大藤小太郎もそのひとりですが、小太郎はこれより前に上杉家を離れたとみられます。おそらく上杉と徳川の和睦交渉が行われていた時期かと思われます。
大藤小太郎が結城秀康に召し抱えられたのは、慶長6年、結城においてのことです(前述) 。秀康は上杉家の移封が伝達された8月の時点で、もう結城を離れていました。秀康は終始宇都宮にあって上杉勢関東進出の抑えの役目をはたした功により、慶長5年12月、越前67万石への加増転封になっていたのです。
この前後の秀康の動向について、江戸時代に編纂された福井藩の正史『国事叢記』からたどってみます。宇都宮から結城に帰陣したのが、慶長5年の10月で、その後しばらく江戸に滞在したのち伏見に上っています。翌6年2月、家臣の本多富正を伏見から越前に派遣し、北庄城受け取りと移転の準備にあたらせました。その後、いつかはわかりませんが、一旦、結城に帰っています。秀康が大藤小太郎を召し抱える約束をしたのはこのころではないでしょうか。
同年5月、秀康は伏見に向かい、そこから大津、敦賀を経て北庄(のち福井)に入ったということです。 また、同書は「雑談に曰く」として、 「七月、上杉景勝同道上洛、直に御入国」とも記しています。前年には、白河口をはさんで対峙した秀康と景勝ですが、両者にある種の信頼関係が生まれていたことがうかがえます。
越前に入った秀康は、直ちに家臣の知行割り、城下町の建設などの領国経営に乗り出します。家臣団についていえば、結城旧来の家臣だけではとうてい越前67万石を切盛りするには足りないため、新規の召し抱えが行われました。 『国事叢記』に、当時の状況が次のように記されています。「新参召し抱え給ふ。武田・北条・上杉・今川はじめ諸家浪人、又は一城の主、戦負け浪々の名家相集い、世人武士の高野(こうや)と称す。 」
大藤小太郎が越前に入った時期は不明です。 小太郎には息子がいました。 金三郎 (のち金左衛門)といいます。実は小太郎より前に結城秀康から父とは別に三百石の知行を与えられています(大藤文書) 。慶長6年9月9日付けですから、秀康の越前入部の直後ということになります。金三郎の方が先に越前に赴いたということでしょうか。
金三郎は大小姓として大坂両度の陣にも従軍し、首級ひとつをあげたことが、 『国事叢記』に書かれています。
古文書講座講師 矢内昭夫
