大藤小太郎の足跡をたどる (4)

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上杉景勝から梁川城の大藤小太郎らに慰労の酒肴が届く

 10月16日付け直江兼続から梁川城の諸士に宛てられた書状には、伊達方への内応が発覚した横田大学を会津若松へ送ること、町人・百姓でも不審なものは若松へおくるべきこと、梁川城代の須田長義家中からも証人(人質)をとることなどが書かれています(木村徳衛『直江兼続伝』 ) 。宛名は、順に大藤小太郎、築地修理亮、金子美濃守、車丹波守の4名です。関ヶ原の合戦が東軍の勝利で決着してからひと月になりますが、 上杉と伊達の戦はまだ終わっていなかったことがわかります。

 ここに紹介した兼続書状の宛名のひとり金子美濃守の子である六右衛門ものちやはり結城秀康に召し抱えられて越前におりました。同家は美濃守宛の上杉景勝・直江兼続などからの書状を何通か所持していたようです。明治初年に作成されたとみられる大藤家系図の小太郎の項にこの金子六右衛門家に伝わった上杉景勝の書状が引用されています。内容をすこし読みやすく書き下して次に記します。

わざわざ申し遣わし候。その元、長々在番苦身にて、いよいよ油断なく堅固の仕置き申しつくべく候。この樽肴遣わし候条、賞翫せしむべく候。なお使者申すべく候。
   十二月廿日 景勝(花押) [尚々書きは省略]

 宛名は、筑地(築地)修理亮、大藤小太郎、金子美濃入道の三名になっています。慶長5年もおしつまった12月20日、伊達に備えて長期にわたり梁川城に在番する将士に油断を戒めるとともにねぎらいの樽酒・肴が景勝から届けられたのです。文字通りの陣中見舞いでした。この段階でもなお、伊達との間に和議はなく、緊張が続いていたことが伝わります。

 大藤系図では、書翰の引用に続けて、「右の書翰不審につき、東都田畑先生に問う」としています。北条家に仕えていたはずの大藤小太郎に、なぜ上杉景勝からこのような内容の書翰が送られたのか不審であるということです。

 大藤家から問い合わせをうけた「東都の田畑先生」からの回答は詳述はしませんが、全く的外れなものでした。

 大藤家の子孫は小太郎が一時期上杉家に仕え、梁川城にあって伊達勢と戦った事実を一切知らなかったようです。あるいは、あえて小太郎(または大藤家)はこのことを語らなかったのかもしれません。家康に敵対した上杉方について伊達と戦ったことは誉れとみても良いかとおもいますが、やはり徳川への憚りがあったのかもしれません。結城秀康はもちろんこの経歴を承知し、それを評価して、上杉家と同じ千石という禄高で小太郎を召し抱えたのだと思われます。

 同年12月25日、上杉景勝は本多正信、榊原康政らの勧めに応じて、家康との和議を進めることとし、本庄繁長を上洛させます。和睦のための交渉は難航したようです。翌慶長6(1601)年7月、景勝は直江兼続らを従えて会津を発し、伏見の上杉邸に入りました。このとき、結城秀康が同行したとも言われていますが、確かではありません( 『結城市史』第4巻 )。

     古文書講座講師 矢内昭夫

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