伊達政宗と戦った大藤小太郎
直江兼続は、家康との直接対決が回避されたことと前述した伊達政宗の怪しげな「降伏」申し出もあり、最上領への侵攻を開始します。上杉勢は、9月12日から17日にかけての激戦で、最上方の多くの出城を陥落させ、最上義光(よしあき)の居城山形城に迫ります。しかし、ここで義光の要請をうけた伊達の援軍が参戦してきました。さらにこの月15日に行われた関ヶ原合戦での西軍敗北の報が届きます。兼続は、間髪を入れず米沢への引きあげを敢行しました。この時の撤退戦で、殿(しんがり)をつとめ、追いすがる最上勢を蹴散らす働きを見せたのが前田慶次でした。慶次は前田利家の親族ですが、利家のもとを出奔して上杉家に召し抱えられていたのです。ドラマにもなっているので御存知の方も多いと思います。慶次の上杉家での禄高は大藤小太郎と同じ千石でした。
伊達政宗は、関ヶ原での東軍の勝利に力を得て、旧領の自力奪還に闘志を燃やします。10月6日、2万ともいわれる大軍を催し白石城を出発、福島城に迫りました。福島城将本庄繁長は籠城戦を覚悟しますが、繁長の子義勝は果敢に出撃をはかって激しい戦闘となりました。この戦で、両軍に多数の戦死者が出たということです。
政宗本隊は転進して信夫山の麓に本陣を構えました。この情報を得た梁川城代の須田長義は加勢の諸将とともに出陣し、阿武隈川を渡り伊達軍の背後をつきます。伊達軍はおもいもよらぬ奇襲に大混乱となりました。「須田系譜」(『梁川町史6』)の長義の項に、この奇襲のことが記されています。「政宗後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具・竹に雀の紋幕、及び看経幕、黄糸を以て縫った法華経廿八品」を戦利品として奪い取ったとあります。
上杉と伊達のこの戦いは、当時信夫山の南麓を流れていた松川付近で行われたことから「松川の戦い」とよばれています。この合戦について、後世編纂された『伊達郡誌』は次のように伝えています。
・・・片倉景綱、伊達成実、濱田治部其他の諸軍七千余騎を部諸し、進んで阿武隈川辺に陣す。又、梁川城には須田長義城将として年まさに二十三歳の血気盛なるに加へ、六月初旬、横田大学鉄砲百挺を以て来援し、佐竹よりも車丹波守来り、又鬼生田大膳、金子美濃、 大塔小太郎等も来りて加勢し、総勢二千余騎、政宗等来ると聞き、進んで大枝村に迎撃し流れを乱して血戦す。政宗大敗、死傷非常に夥だしく、河水爲めに赤しと云ふ。政宗漸く血路を開きて白石に逃れたるに・・・
一部読点を補い、旧字を常用漢字またはひらがなに直してよみやすくしてあります。なお、文中にあるように、軍記物や郡誌などの編纂物では大藤小太郎を「大塔小太郎」と表記したものがいくつかみられます。
結局、 政宗は福島城攻略を断念し、 翌7日、 白石を経て北目城 (仙台市太白区) に帰城しました。しかし、旧領恢復の野心は捨てきれず、このあとも何度か上杉領へ兵を差し向けます。
古文書講座講師 矢内昭夫
