香雲寺と大藤氏について
令和7年11月、秦野歴史おこしの会主催の市内地区研修会に参加し、西田原の曹洞宗大珠山香雲寺を見学させていただく機会を得ました。香雲寺は南足柄市にある大雄山最乗寺と関わりの深い寺院です。最乗寺は全国に4000余りの門流を持ち(同寺ホームページ)、明治初年までは、開山了庵慧明に連なる了庵派十六派の法嗣が一年交替で住持職を勤める輪住制がとられていました。香雲寺は十六派のうち噩叟(がくそう)派の中心寺院で、輪住の資格を代々継承していました。末寺は、秦野近隣にとどまらず、南伊豆方面にも多数確認できます。そのような有力寺院として存在できたのは歴代住職のはたらきは勿論ですが、これを支援した大檀那大藤(だいとう)氏の存在も大きかったと思われます。
研修会では「大藤秀信」の名前が刻まれた寛永6(1629)鋳造の梵鐘を間近で拝見することができました。また、本堂の裏手には大藤氏の墓所があり、墓石に刻まれた戒名の一部も読むことができました。得ることの多い研修会に参加できたことを感謝しております。
この研修会を機に大藤氏と香雲寺についてさらに調査を進め、明らかになったことなどをまとめ、このコーナーをお借りして何回かに分けてご報告申しあげたいと思います。
今から四百数十年前、香雲寺からそう遠くない山麓に中郡郡代大藤氏の城館が建っていました。同氏初代、金谷斎(きんこくさい)は紀州根来の出身と伝えられ、軍記物では後北条氏の軍師として登場します。香雲寺の前身とされる春窓院はこの金谷斎の創建ではないかと考えています。金谷斎に苗字はなく、大藤を名乗ったのは次の世代からでした。
金谷斎のあとは末子の秀信が継いでいます。噩叟派四世の實堂宗梅を田原に招聘して香雲寺の開基となったのはこの秀信です。秀信は武田信玄への援軍を指揮して遠州二俣に派遣され、その地で鉄砲にあたり落命しました。
秀信の跡を継いだのは政信です。なお、黒田基樹氏は先代の秀信が北条氏政から一字を拝領し政信と名乗っていたという説を提唱しています。政信が二代続いたということになります。秀信も政信も「式部」を通称とし、諸足軽衆の大将、いわば後北条氏の即応部隊の指揮官として各地の合戦で活躍し高名を遂げています。
四代目の実名はわからず、大藤氏の家督継承予定者が代々名乗ったとみられる与七という仮名(けみょう)で文書に登場します。豊臣秀吉の大軍を迎え撃った小田原合戦では、この大藤与七が韮山に籠城した北条氏規を補佐して戦いました。このときおそらくまだ二十代ではなかったかと思います。
田原を本拠地とした大藤氏は四代目与七の時代に終焉を迎えます。大藤氏宗家の文書を継承したのは、越前藩士の大藤家です。同家文書に与七の次の代とみられる大藤小太郎の名前がみえます。与七とは兄弟または同一人物の可能性もあるのではないかと考えています。『新編相模国風土記稿』にも慶長年間に大藤小太郎が香雲寺の修復について指示した書簡が掲載されています。
ここからは、この大藤小太郎に焦点を絞って、その足跡を尋ねてみたいと思います。
古文書講座講師 矢内昭夫
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